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映画人列伝

木村威夫(美術監督)

[ 第2回 ] 今までの概念を崩す。要は発想力だ

初めて美術監督を務めた「海の呼ぶ声」(1945年、伊賀山正徳監督)で、網元の土間のセットを作ったが、撮影前日に伊賀山監督から「広い」と言われる。そう言われればそうだと思ったが、「これからは飾りつけをするから大丈夫」と意地を張る。困った木村は歩き回って釣り具や網やかごをセットするが、まだ間が空いている。それでも諦めずに歩き、釣具屋にあった川船を見つけ、セットするとピッタリと隙間が埋まった。「それで僕は『映画美術の神髄は、そのときの状況をいかに把握するかだ』とわかったんです」
毎日映画コンクールでは第9回「或る女」「黒潮」、第36回「謀殺・下山事件」、第41回「海と毒薬」「ウホッホ探検隊」「夢見るように眠りたい」で美術賞を受賞。日本映画界の最盛期に大活躍したが、一時期は「わけのわからない映画を作る」と言われ、外されたこともあった。だが予算の厳しい中でも熊井啓監督や鈴木清順監督らと名作を生み続けた。「今までの映画の概念を崩すんです。そうすれば予算が少なくても何とかなります。要は発想力ですよね」木村は、生徒たちにも、基本を教えた上で、あとは自由奔放にやらせる。発想の秘訣は、「シナリオの解読力をつけて、後は自分で考えること」と言う。
86歳となった現在も、木村威夫は最前線で活躍。若い世代の作品にも参加し、「夢幻彷徨MUGEN-SASURAI」(2004年)では、監督を務めた。「まだ何かあるんじゃないかって思うんですよ」。わかりやすく、単純で、ドラマティックな映画は売れるが、それだけに頼れば日本映画は衰退する。実験的な、斬新なものを、と。
「今考えてるのは、ドラマティックじゃない映画。淡々とした流れで、どうしたら『想い』が伝わるか」
ますます盛んな美術監督木村威夫の次が楽しみである。

生年月日:1918年 出身地:東京都 
1935年、舞台美術の大家伊藤熹朔の許に弟子入り。1941年に日活に入社し、1945年「海の呼ぶ声」(伊賀山正徳監督作品)でデビュー。1947年からはフリーランスとして、「サンダカン八番娼館」(1974年、熊井啓監督)、「ツィゴイネルワイゼン」(1980年、鈴木清順監督)などを手掛け、「式部物語」(1990年、熊井啓監督)では、モントリオール世界映画祭・最優秀芸術貢献賞を受賞。近年でも「夢幻彷徨 MUGEN-SASURAI」(2004年)で監督を務めるなど、精力的に活動を続ける。近年の作品は、「父と暮せば」(2004年、黒木和雄監督)「オペレッタ狸御殿」(2004年、鈴木清順監督)など。毎日映画コンクール・美術賞は、第9回(1954年)「或る女」「黒潮」、第36回(1981年)「謀殺・下山事件」、第41回(1986年)「海と毒薬」「ウホッホ探検隊」「夢見るように眠りたい」で受賞している。