[ 第1回 ] 大島監督に「スケジュールに思想がない」としかられた
----映画界に入ったきっかけから教えてください。
フリーター時代に高校の先輩に勧められて、照明の人足のアルバイトとして現場に入りました。照明見習いで、やることは機材を運ぶことでした。3日もすればある程度映画作りの流れが理解できるのですが、これはなかなか面白い世界だと。でも、照明は自分に合っていない。しばらく様々なパートをやってみて、最終的に監督志望になったんですね。
――かなり若くして大島渚監督作品「愛のコリーダ」のチーフ助監督になられたとか。
これは幸運というか、強運でした。クランクイン寸前に、チーフ助監督が解雇されて、セカンド助監督だった僕が昇進したとか、昼メロのセカンド助監督だった時、チーフ助監督が監督に昇進して、僕もそのまま上がったりだとか。それで、26歳の時に、若松孝二さん(愛のコリーダ演出)に誘われて、大島組に助監督として参加したんです。その時は、大島さんが一番若い助監督である僕を抜擢したんです。
----大島監督には「思想がない」と叱られたと聞きましたが。
映画というのは、助監督が合理的なスケジュールを組むんですが、監督にとっては面白くないんですね。創作を助けるというよりは、進行上の都合で決めますから。たとえば、同じセットを使うシーンは、一緒に撮るというかたちで。それで、「スケジュールに思想がない。今、我々がどういう仕事をしているか、少し思考しろ」ということだったんです。でも、今思えば、結果的には、僕が考えたスケジュールどおりになったんですけれど(笑)
----なかなか難しい注文ですね。
でも褒められたのは( F )でしたね。僕はスケジュールに( F )と書いておいたんですね。すると大島さんが「なんだ、これは?」と聞くので「FUCKです」と答えたら喜んでましたね(爆笑)
喜んだ理由ですけれどね、僕は( F )を初日に組んだんです。普通のスケジュールではあり得ないですよ。でも「愛のコリーダ」は本邦初のハード・コア作品ですから、我々の覚悟を示したかったんです。この映画は映画界にとってショッキングな出来事だから、事後のことも考えていこうと。先駆者の仕事に伴うネガティブな反応は必ずある。ある種のバイアスがかかるから、それを内側のエネルギーに転換したかった。主役でも、そうでない人も、これに関わるということは覚悟が必要なんだということを強調したかったんです。大島監督の二人の息子も、お前のおやじはエロ映画撮りやがって、なんて言われたみたいですから。
生年月日:1949年7月6日 出身地:長野県
高校卒業後、照明助手として映画界入り。「愛のコリーダ」(1976年大島渚監督)、「最も危険な遊戯」(1978年、村川透監督)の助監督を務める。1981年、テレビ映画「プロハンター」で監督となり、1983年、「性的犯罪」で映画初監督を務める。1993年、「月はどっちに出ている」でブレイク、第48回毎日映画コンクール・日本映画大賞をはじめ、その年の映画賞を総なめにした。1996年、韓国ソウルの延世大学語学学院に留学後、監督活動を再開。2002年、「刑務所の中」ではブルーリボン賞監督賞を受賞。2004年ビートたけし主演で話題となった「血と骨」が大ヒット。再び毎日映画コンクール(第59回)・日本映画大賞、監督賞などの映画賞を席巻する快挙を成し遂げた。