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三留まゆみと松島利行のベルリン映画祭だより-1


はじめに:海外の映画祭と毎日映画コンクール

 毎日映画コンクールの表彰式が終わると、映画界はベルリン国際映画祭とアカデミー賞である。世界の映画界のイベント暦では、ロッテルダム映画祭が1月 末、ベルリン国際映画祭が2月初旬に始まり、ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭も2月中旬にあったのだが、ゆうばりは今年まででなくなってしまう かも知れない。アメリカ・アカデミー賞は従来はノミネート発表が2月中旬で、オスカーの授賞式、発表は3月になってからだったのに、今年は日程が大幅に繰 り上がって1月下旬にノミネート発表、2月末に授賞式だった。いずれにしても映画界の“新年”“正月”はこうして始まるのである。

  ベルリン映画 祭は今年で57回、毎日映画コンクール(以下、映コンとする)は61回、映コンの歴史はカンヌ国際映画祭とほぼ同じで、ベルリンよりもいささか長い。これ は第二次大戦の終結を契機としているからだ。都市は破壊され、仕事も住まいも食料も乏しく、人々の心も荒廃していた。貧しくすさんだ世相に灯をともすのは 文化である。わが国では並木路子が歌う『リンゴの唄』が焼け跡に流れたが、フランスではシャルル・トレネの『ラ・メール/海』が歌われ、エディット・ピア フの唄が流れた。今回のベルリン映画祭のオープニングはピアフの人生を描いた作品『ラ・ヴィ・アン・ローズ/バラ色の人生』だった。そして人々は爆撃で破 壊された屋根に応急修理をしたような映画館に長蛇の列を作った。フランスでも日本でも映画産業を復興させ、元気づけ、広く市民大衆に映画を提供しようをス ローガンに、カンヌでも東京でも同じ1946年(昭和21年)に映画祭、映画コンクールが誕生したのである。

  なお、ヴェネチア国際映画祭は 1932年に始まっている。ヒトラーが国威発揚のためにベルリンでオリンピック開催を企図したとき、ナチス・ドイツの盟友であったファシスト党の首領ムソ リーニはローマ郊外に広大な撮影所チネチッタを建設し、ヴェネチアで映画祭を開催することにしたのである。実を言えば、毎日映画コンクールの前身、東京日 々新聞(大阪毎日新聞と統合して現在の毎日新聞となる)の全日本映画コンクールはこの時期に懐胎したと言ってもいい。オリンピックを控えたベルリンに滞在 中の牛原虚彦監督のもとを訪れた東京日々の映画担当記者、永戸俊雄が「ハリウッドのアカデミー賞のような催しを日本でもやろうではないか」と話が盛り上が り、昭和15年(1940年)に始まるのだが、すぐに戦時体制となって実質的には2回で終わった。そのノウハウがあったので敗戦後すぐに毎日映画コンクー ルが生まれたわけである。

  1951年のベルリン映画祭の出発も戦後の復興の一助にということでは同じだが、米ソ冷戦の激化が深く関わっている。 市民の生活を東西に分断した“ベルリンの壁”によって東ドイツの中に孤島のように取り残された西ベルリン市民のために、60年代になると西側諸国は食料も 空輸したが、 明るく暖かい自由主義陣営の文化、娯楽も送り続けた。その象徴が一般市民のために開催されるベルリン映画祭である。    
  以上 が毎日映画コンクールのサイトの中でなぜベルリン映画祭の報告が併載されるのか、いささか長くなったが、その理由である。映画界は国際化しており、日本で 世界中の映画が見られるように、欧米諸国でもアジアの各地でも日本映画は広く見られて、映画人の交流も盛んである。映コンもその一翼を担っているのであ る。
  なお、このあとカンヌなど海外の映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭などについても随時、さまざまなライターによるレポートを載せていくことになるであろう。
(松島利行)