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映像夢工房

早稲田大学

安藤鉱平教授(&映画監督)インタビュー

昔は撮影所が学校だった…   (連載第2回)

Q 早稲田大学で「映画」をどのように教えますか?

今や撮影所は崩壊していますが、ある時期、撮影所がいわば学校の役割を果たす、という時代がありました。それぞれの撮影所に「家風」みたいなものがあって、それぞれの方法で人を育てながら映画を生産していたんです。松竹はメロドラマが得意、東宝は現代劇、東映は時代劇・・・。雨の降らせ方ひとつとっても、松竹の雨はしとしと降って、東宝は、横殴りの雨。小津安二郎監督と黒澤明監督の違いです。山田洋次監督にお聞きしたんですが、松竹では馬一頭出るだけで大騒ぎ、ところが、黒澤監督が普通のお茶の間の芝居を撮るときには、松竹では誰でも常識のようなことでも、凄く苦しんで撮っていたそうです。それぞれにノウハウがあって、それらが撮影所の中で受け継がれていって、それぞれの文化になったんだと思います。“黒澤監督の土砂降り雨の跳ね水は、比重を重くするため砂糖が混ぜてある”とか、“雨脚を写りやすくするため墨汁を混ぜる”とか、“海水はバスクリンを混ぜる”とか・・・。先人の工夫が、映画全体に満ち溢れていました。

それらを、というか、むしろそういった工夫の仕方、イマジネーションの用い方を学生に学ばせたい。そこで、「京都・太秦スタジオと日本映画」という講座では、太秦スタジオに学生を連れて行って、昔ながらの職人的ノウハウを体感させます。一方で、「マスターズ オブ シネマ」では、山田洋次、大林宣彦、小栗康平、久石譲といった時代性と自らの世界観を持つ映画人たちを毎週招いて、発想力と独自の価値観を養う重要なヒントを与えます。学部レベルにおいては、人間性豊かな人物の育成に集中し、専門分野に捉われず映画・映像分野に関心を持った全学部生に基礎教育を行い、さらに高度な教育を望む学生には、大学院国際情報通信研究科において高度な専門教育を行います。
誰にでも映画のことを学べる環境を作ってあげることが先決だ、と考えたのです。
(以下次号)

あんどう こうへい 1944年 東京都生まれ
パリ留学後、寺山修司の天井桟敷に在籍。TBSを経て、現在、早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授。
69年「オーマイマザー」(オーバーハウゼン国際映画祭入賞)、71年「息子達」(トノンレバン国際映画祭グランプリ)、94年「アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる」(HD。ハワイ国際映画祭銀賞)、98年「フェルメールの囁き」(HD。モントルー国際映像祭グランプリ)などの作品がある。


『スパイ・ゾルゲ』を本庄でやりたい。それがそもそもの始まりだった。

財団法人 本庄国際リサーチパーク研究推進機構事務局長 岡田隆行さん

「市民と学生の映画作り」を強力にバックアップする財団の岡田局長に、その導入段階から軌道に乗せるまでの苦労と楽しさを語ってもらった。(随時掲載‐第1回)

初めて本庄に来たときは、正直に言って、こんなさびれた町に大学が来て大丈夫だろうか、と思いましたね。そこで、大学人だけで議論していても限界があるので、当時の奥島総長に来てもらって「総長を囲む会」を実施しました。その中に映画監督の篠田正浩さんがいたんですね。そのとき篠田さんは「俺は『スパイ・ゾルゲ』という映画を撮りたい。昭和の歴史を語る上で、この映画はなんとしてでも作りたい。この映画が撮れたら俺は死んでもいい。これを撮ったら俺は引退する」と言うんですよ。そのとき僕は、これだ!と思ったんです。『スパイ・ゾルゲ』を何としても本庄でやりたい。それがそもそもの始まりですね。

とは言っても当時の本庄には何もなかった。そこで大学からさまざまに働きかけて、独立行政法人・情報通信研究機構(NICT)の支援センターを本庄に誘致することに成功しました。「コンテンツとネットワークの未来を創る」最新のデジタル映像制作の拠点―音声の加工、CG制作、映像の加工・合成などデジタル編集のすべてが揃った画期的な施設がここに誕生したのです。篠田監督も、じゃあ本庄でやろうと。そしてついに『スパイ・ゾルゲ』を本庄で、という僕の夢が実現に向けて動きだしました。撮影は上海、ベルリンと海外ロケも多かったのですが、篠田監督は本庄には3ヵ月ぐらい泊り込みで、渾身のメガホンを取りました。その意気に感じて本庄のフィルムコミッションが協力。市民と一体になった映画作りが実現したのです。