ひょんなことで寺山修司と知り合い、ひょんなことで映画へ(連載第7回)
Q 安藤先生は早稲田の理工出身ですが、どうやって映画の道に進まれたのですか?
もともと文学が好きで、芝居がやりたくて仕方がなかったんですが、父は、“これからは理系の時代だ。理工学部へ行け”と強く勧めました。父は、もともと文科系で文学者になりたかったという人なんですけどうまくいかず、苦労して外務省の役人になったという経緯がありましたから、息子には回り道をさせたくなかったんですね。早稲田大学理工学部に入学、電子工学専攻でしたから、デジタルの“走り”ではあったわけです。
理工に来てみたけど、もともと本が好きで、物を書くのが好き、芝居が好き、おまけに音楽も好きでビブラフォンなんていうのをやっていました。ひょんなことで寺山修司さんの「天井桟敷」の芝居の音楽を手伝うことになって、それで寺山修司の芝居っておもしろそうだなって思ったんですね。そうしたら寺山さんも「安藤さん。ちょっと入ってみませんか」みたいなことで、寺山さんとのおつきあいが始まりました。
天井桟敷という劇団には、当時家出少年や家出少女みたいなのばっかりいて、警察から、“こういう少年の捜索願が出ているんだけど、お宅にいないか”、なんて電話がよくかかってきました。フランスの交換留学から帰ってきたばかりの僕は、ネクタイ締めてマトモそうだったから、これは使えるぞ、と寺山さんは思ったんでしょうか。文化庁なんかから助成金を引き出すため、よく連れていかれました。
映画との出会いは、天井桟敷のヨーロッパ公演のときです。航空会社とのタイアップで、テレビに流す映像を撮らなくてはならなくて、でも、フランスの撮影スタッフがすごく高かったんです。そしたら寺山さんが言うんです。「安藤、これからは映像の時代だよ。半分ずつ出し合って中古カメラを買おうよ。日本に帰ったら一緒に映画を撮ろうよ」。その言葉にすっかり騙されて、買ったカメラでタイアップ映像を撮ったのが、僕の最初の映像でした。その後、いくら待っても、寺山さんから共同作品の話が来ない。そこで、仲間の萩原朔美君たちに手伝ってもらって撮ったのが初めての作品「オー・マイ・マザー」(1969)でした。恐らく電子映像を使った日本最初のフィルム作品でしょう。これが、幸か不幸かドイツの映画祭に入選して、映画の道に入り込んでしまったわけです。
(以下次号)
あんどう こうへい 1944年 東京都生まれ
パリ留学後、寺山修司の天井桟敷に在籍。TBSを経て、現在、早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授。
69年「オーマイマザー」(オーバーハウゼン国際映画祭入賞)、71年「息子達」(トノンレバン国際映画祭グランプリ)、94年「アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる」(HD。ハワイ国際映画祭銀賞)、98年「フェルメールの囁き」(HD。モントルー国際映像祭グランプリ)などの作品がある。